藍瓶

田中貢太郎

1880-1941 大正-昭和時代前期の小説家。

明治13年3月2日生まれ。大町桂月に師事し,「田岡嶺雲・幸徳秋水・奥宮健之追懐録」が出世作となる。「中央公論」の「説苑(ぜいえん)」欄に実録,情話,怪異譚をかき,雑誌「博浪沙」を創刊した。昭和16年2月1日死去。62歳。高知県出身。号は桃葉。著作に「旋風時代」など

wikipedia:田中貢太郎

 玄関の格子戸(こうしど)がずりずりと開(あ)いて入って来た者があるので、順作は杯(さかずき)を持ったなりに、その前に坐った女の白粉(おしろい)をつけた眼の下に曇(くもり)のある顔をちょと見てから、右斜(みぎななめ)にふりかえって玄関のほうを見た。そこには煤(すす)けた障子(しょうじ)が陰鬱(いんうつ)な曇日(くもりび)の色の中に浮いていた。
「何人(たれ)だろう」
 何人にも知れないようにそっと引越して来て、まだ中一日たったばかりのところへ、何人がどうして知って来たのだろう、まさか彼ではあるまいと順作は思った。と、障子がすうと開(あ)いて黄(きい)ろな小さな顔が見えた。
「おったか、おったか」
 それは出しぬいて犬の子か何かを棄(す)てるように棄てて来た父親であった。
「あ」
 順作はさすがに父親の顔を見ていることができなかった。それにしても荷車まで遠くから頼んで、知れないように知れないようにとして来たのに、どうして知ったのだろうと不思議でたまらなかった。
「電車をおりて、十丁(ちょう)ぐらいだと聞いたが、どうして小(こ)一里もあるじゃないか、やれ、やれ」
 どろどろして灰色に見える小さな縦縞(たてじま)のある白い単衣(ひとえ)を着た老人は、障子(しょうじ)を締めてよぼよぼと来て茶(ちゃ)ぶ台(だい)の横に坐った。
「よく知れた、ね」
 順作はしかたなしにそう云って父親の小さな黄(きい)ろな顔を見た時、その左の眼の上瞼(うわまぶた)の青黒く腫(は)れあがっているのに気が注(つ)いた。
「前の車屋の親方が聞いて来てくれたよ、お前が出しぬけに引越したものだから、俺、お大師(だいし)さんから[#「お大師さんから」は底本では「お太師さんから」]帰ってまごまごしてると、車屋の親方が来て、お前さんとこの息子は、とんでもねえ奴(やつ)だ、親を棄(す)てて逃げるなんて、警察へ云ってくが宜(い)い、俺がいっしょに往いてやろうと云うから、俺がそいつはいけねえ、あれもこれまで商売してて、旨く往かなかったから、都合があって引越したのだ、そいつはいけねえと断ったよ」
「あたりまえよ、不景気で借金が出来たから、ちょと逃げてるのだ、警察なんか怖(こわ)いものか」
「そうとも、そうとも、だから俺、あの親方が、家へ来いと云ってくれたが往かなかったよ」
「よけいなおせっかいだ」
「そうとも、俺は癪(しゃく)にさわったよ、お前さんとこの息子もいけないが、あの女がいけねえのだ、ちゃぶ屋を渡り歩いた、したたかものだ、とっさんが傍にいると……」
 父親のほうはよう見ずに紅(あか)い手柄(てがら)をかけた結(ゆ)いたての円髷(まるまげ)の一方を見せながら、火鉢(ひばち)の火を見ていた女が怒りだした。
「どうせ私は、ちゃぶ屋を渡り歩いた、したたかものですよ」
 父親はあわてて云った。
「ま、ま、ま、お前さん、俺は、お前さんの悪口を云うのじゃない、車屋の親方の云ったことを、云ってるところじゃ……」
「どうせ私は、そうですよ、ちゃぶ屋を渡り歩いた、したたかものですよ」
 女は父親の顔に怒った眼を向けた。父親の青黒く腫(は)れあがった左の眼が青くきろきろと光った。
「よけいなことを云うからだ、車屋の痴(ばか)なんかの云ったことを、お浚(さら)いするからいけないのだ」
 順作はよけいなことを云っていい気もちになっていた女を怒らした闖入者(ちんにゅうしゃ)が憎くて憎くてたまらなかった。
「そ、そ、そりゃわるい、そりゃ俺がわるいが、俺は姐(ねえ)さんの悪口(あっこう)を云われたから、癪(しゃく)にさわって、それで云ってるところじゃ、だから車屋の親方が、家へ来て、飯(めし)も喫(く)え、家におれと云ってくれたが、癪にさわったから往かなかったよ」
「それじゃ、どうして知った」
「車屋の壮佼(わかいしゅ)に、荷車の壮佼を知った者があってね」
「そうか」
 あんなに旨くやったのにまたしても知られたのかと思って順作は忌(いま)いましかった。そうした順作の考えのうちには、その前の途中で仲間に逢(あ)ったがために知られた引越のことも絡(から)まっていた。
「まあ、良かった、早く知れて、俺がまごまごしてると、傍(はた)の者が、よけいなことを云いだすから、姐(ねえ)さんに気のどく……」
 老爺(おやじ)の詞(ことば)を叩き消すように順作が云った。
「いい、それがよけいなことなのだ、なぜ何時(いつ)までもそんなことを云うのだ」
 父親の左の眼が青く鬼魅(きみ)悪く見えた。父親はじっと伜(せがれ)の顔に眼を移した。
「そうか、そうか、云ってわるいか、わるけりゃ云わない、お前ももう四十を過ぎた考えのある男だから、俺は何も云わん、俺はお前が人様に笑われないように、やってくれるならそれでいい」
 女はその時そこにいるのがもうたまらないと云うようにして起(た)ちあがった。単衣(ひとえ)の上に羽織(はお)った華美(はで)なお召(めし)の羽織(はおり)が陰鬱(いんうつ)な室(へや)の中に彩(あや)をこしらえた。順作はそれに気をとられた。
「どこかへ往くのか」
「ちょっとそこまで往って来ますわ」
「どこだね」
「ちょっとそこですわ」
「飯(めし)を喫(く)ってからにしちゃ、どうだね、俺も往くよ」
「でも、私、ちょっと歩いて来ますわ」
「じゃ、俺も散歩しよう」
「でも、家は」
「家は留守番が出来たから宜(い)いよ」
「そう」
 順作は起(た)って父親の方を見た。
「腹が空(す)いたら飯(めし)を喫(く)ったら宜(い)いだろう、ちょっと往って来るから」
「宜いとも、宜いとも、往って来るが宜い、俺は遅く物を喫ったから、何も喫いたくない」
 女は背後(うしろ)の壁際(かべぎわ)に置いてある鏡台の前へ往って、ちょっと蹲(しゃが)んで顔を映し、それから玄関の方へ往った。それを見て順作も引きずられるように跟(つ)いて往った。

 順作と女は柵のない郊外電車の踏切を越えて、人家と畑地(はたち)の入り交(まじ)った路(みち)を歩いて往った。
 曇っていた空に雲ぎれがして黄昏(ゆうぐれ)の西の空は樺(かば)色にいぶっていた。竹垣をした人家の垣根にはコスモスが咲いていたり、畑地の隅(すみ)には薄(すすき)の穂があった。
「困ったなあ」
「困っちゃったわ」
「田舎(いなか)へでも往こうか」
「そう、ね、え」
「田舎ならよう来ないだろう」
「でもあんなにしても、判るのだから」
「そうだ」
「どこか穴の中へでも入れとかないかぎりは、追っかけて来るのですわ」
「そうだよ、ほんとに穴倉の中へでも入れときたいね」
「そうよ」
 二三人の小供の声で何か歌う声がした。左側に邸址(やしきあと)らしい空地があって、そこから小供が出て来るところであった。その空地にはおとなの背ぐらいもあるような大きな瓶(かめ)がたくさん俯向(うつむ)けにしてあるのが見えた。
「あれ、なんでしょう」
 女が指をさすので順作は考えた。そして、紺屋(こうや)の瓶ではないかと思った。
「紺屋の瓶のようだね」
「大きいわ、ね、え」
「紺屋の瓶なら大きいよ」
「往ってみましょうか」
「そうね」
 二人は空地の中へ折れて往った。短い草が斑(まばら)に生えて虫が鳴いていた。瓶は十五六箇(こ)もあった。
「小供が入ったらあがれないのね」
「そりゃあがれないだろう」
「重いでしょうか」
「さあ」
 順作はうっとりと何か考え込んだが、気が注(つ)いて近くの瓶の傍へ往って、狭(せば)まっている底のほうに力を入れて押してみた。瓶(かめ)はなかなか重かったがそれでも斜(なな)めに傾きかけた。
「小供を入れたら出られないでしょうか」
「さあ」
 そう云って順作は瓶を離れながら四辺(あたり)に眼をつらつらとやった。それは己(じぶん)のやっていることを見ている者がありはしないかと注意するように。
 女は順作の容(さま)をじっと見て何も云わなかった。
「往こう」
 二人は空地を出て歩いた。四辺はもう暮れていた。
「おい」
 順作はぴたり女に擦(す)り寄って囁(ささや)いた。
「帰って厄介者(やっかいもの)を伴(つ)れて来よう」
 女は小声で囁きかえした。
「宜(い)いの」
「宜いさ」

 順作と女は家へ帰って来た。父親ははじめに坐っていた処にちょこなんと坐っていた。
「おう、帰ったか、帰ったか」
 順作はその父親の詞(ことば)を受けて云った。
「寄席(よせ)へ往こうと思って、呼びに来た、往こうじゃないか」
「ほう、俺を寄席へ伴(つ)れてってくれるか、そいつはありがたいや、何だかかってるのは」
「落語だよ」
「そうか、姐(ねえ)さんも往くか」
「往くよ」
「そいつはありがたい、伴れてってくれるか」
「じゃ飯(めし)を喫(く)って往こう、お父さん喫ったのか」
「俺は喫いたくない、遅く蕎麦(そば)を喫ったのだから、ひもじけりゃ帰って来て喫うよ、お前達が喫うが宜(い)い」
「じゃ喫おう」
 二人は飯をはじめた。父親は黙りこくって坐っていた。
 飯がすむと三人で家を出た。門燈(もんとう)のすくない街は暗かった。父親は二人の後(あと)からとぼとぼと体を運んでいた。
 三人は黙黙として歩いた。郊外線の電車の線路には電燈がぼつぼつ点(つ)いていた。三人は踏切を越えて歩いた。
 虫の声が一めんに聞こえていた。空にはまた一めんに雲がかかっていた。三人は彼(か)の空地の前へ往った。
「ここを抜けて往こう、近いから」
 順作はそう云って、すぐ己(じぶん)の背後(うしろ)にいる父親のほうを見た。
「そうか、そうか、近い路(みち)が宜(い)いとも」
 三人は空地の中へ入って往った。瓶(かめ)の傍へ往ったとこで順作が足を止めた。
「お父さん」
「ほい」
「ちょと話がある」
「どんな話だ」
「ちょと蹲(しゃが)みなよ」
「宜いとも」
 父親はそのままそこに蹲んだ。女はそっと父親の顔に注意した。左の腫(は)れあがっている眼が青くきろきろと光って見えた。と、順作の体が動いて父親の小さな顔は順作の手にした物で包まれてしまった。父親は声も立てなかった。
「それ」
 女はその声とともに父親に飛びついてその体を抱き縮(すく)めた。と、順作の体は傍の瓶に絡(から)まった。
「それ」
 そこにぐうぐうと云うような呻(うめ)きが起った。
「宜いのか」
「宜いわ」
 順作と女はそそくさと瓶(かめ)の傍を離れて歩いた。
 二人は踏切まで帰って来た。二人の体は電柱に点(つ)けた電燈にぼんやりと照らされた。
 電車の響きがすぐ近くでした。
「電車が来た」
 順作は女を前(さき)に立てて走って線路を横ぎろうとした。女が躓(つまづ)いて前のめりに倒れた。順作ははっと思って女を抱きあげようとした、と、そこには女の姿もなければ何もなかった。順作は驚いて眼のせいではないかと思って見なおそうとした。同時に右から来た電車が順作を刎(は)ね飛ばして往った。順作はそのまま意識を失ってしまった。

 順作は頭部に裂傷を負い、右の手を折られて附近の病院に収容せられていた。
 翌日になって意識の帰って来た順作は、家へ人をやって女を呼びに往ってもらったが、女は留守だと云って来なかった。順作は罪悪が恐ろしくなって逃げたのではないかと思った。順作は女のことよりも罪悪の暴露が恐ろしかった。
 翌日になって二人の見知らない男が看護婦に案内せられて入って来た。二人の男の物腰はそれはどうしても刑事であった。順作は顫(ふる)いあがった。
「警察から来たのだが、あなたは、芝の浜松町×××番地にいて、一昨昨日(いっさくさくじつ)、ここへ越して来たのですか」
「そうです」
「お父さんと何故(なぜ)いっしょに来なかったのです」
「それは、いろいろ、それは商売のことで、やりくりがあるものですから、何人(だれ)にも知らさずに引越して来たのです、それは爺親(おやじ)も知っております、爺親に聞いてくれたら判ります」
「たしかにそうかね」
「たしかにそうです」
「じゃ、君は未(ま)だ知らないね、君のお父さんは、君が引越した晩に、君のいた家の二階で変死したのだよ」
「え」
 順作の驚いたのは昨夜己(じぶん)の手で瓶(かめ)の下へ伏せた父親が一昨昨夜(いっさくさくや)死んでいると云う奇怪さであった。しかし、それは云えなかった。
「君はお父さんは何故変死したと思うね」
「私が、私が、新宿の方でカフェーをやって失敗してから、あっちこっちと引越すことは、爺親も承知のうえのことでございました」
 順作は奇怪な秘密に就(つ)いていろいろ考えたがどうしても判断がつかなかった。警察からはその後(のち)も数回詮議に来たので、父親の遺骸(いがい)の火葬になっていることも判った。
 三週間ばかりして順作はすっかり癒(なお)ったので、退院して己(じぶん)の家へ帰りかけたところで、何時(いつ)の間にかあの空地の前へ出た。見ると空地にはたくさんの人が集まって、何かを中に囲んで見ていた。順作は恐ろしいが見ずには往けないので、こわごわ入って往って人びとの間から覗(のぞ)いた。そこには一つの瓶(かめ)を横に倒した処に見覚えのあるお召(めし)羽織(はおり)を着た女の腐爛(ふらん)した死体が横たわっていた。順作は一眼(ひとめ)見て気絶してしまった。

底本:「日本怪談大全 第二巻 幽霊の館」国書刊行会

   1995(平成7)年8月2日初版第1刷発行

青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)より引用

yahoo知恵袋より引用

そろそろ夏休みでいなかから甥っ子たちが遊びにやってきます
そこでその生意気盛りの甥っ子に怪談をして怖がらせてやろうかと思うのですが
生活習慣の違いからか体質なのかミステリー現象にあったことがありません。

そこでよければ身近であった怪奇現象や不思議な話なんかを
ぜひ教えてください。
もう定番ですがトイレものです。

これは話の盛り上げは話術にかかっていますが、あまりやり過ぎると夜中にトイレに行けなくなりますよ。

参考資料
「擬音語をうまく使うだけで怖さ倍増ですよ。“ドアを開けると”は、“ドアをギギッと開けると”、“後ろから追いかけてくる”は“後ろから、したしたした、と追いかけてくる”など、怪談は聞き手に疑似体験をさせるつもりで話すのがコツです。説明ではなく、体験者の行動やセリフ、リアクションを再現するようにしましょう」
「怪談を語るとき、必ず“実は霊感があって…”という話になりますが、霊感がある人の怪談はあまり怖くない。つまり、『あれはなに? あそこに人がいるわけないのに…。ひょっとして…?』というような、普通の人が怪異に遭遇したときの話がリアルで怖いんですよ」
誰もが自分の身に置き換えられるような、“日常的に潜む怖さ”がある話を選ぶのが大事なんですね。怖がらせようとするあまりぶっ飛んだ話をすると、逆に怖くなくなってしまう、と…。